味噌が日本を染めた歴史 全国に広がった発酵の足跡
日本の食文化を象徴する「味噌」は、その起源から現代に至るまで、実に興味深い歴史を持っています。本記事では、古代から続く発酵文化の中で、味噌がどのように人々の生活や社会に影響を与えてきたのかを探求します。百済から伝わった醤が進化を遂げ、平安時代には貴族たちの特権となり、戦国時代には武将たちの戦場での兵糧としての役割を果たしました。また、江戸時代には都市部での流通が進み、全国的に広がる名産品として根付いていきました。
これを踏まえた上で、現代の工業化の波に飲み込まれながらも、伝統を守る地方蔵元たちの存在が、味噌文化の重要性を再認識させてくれます。読者の皆さんには、記事を通じて味噌の奥深い魅力に触れ、食卓に華やかな味わいをもたらす手作りのお味噌への理解と興味が湧くことを願っています。当店のこだわりのお味噌も、ぜひ味わってみてください。あなたの食生活に、新たな発見を加えることができるはずです。
味噌の始まり古代の発酵文化
味噌の歴史は、日本の古代に遡ります。発酵文化が根付いたこの時代、味噌は他の発酵調味料と共に日本の食文化の基盤を築きました。味噌がどのようにして日本の食生活に取り入れられたのか、その始まりを辿ることで、私たちの現在の食卓に欠かせない存在となった背景が見えてきます。
醤から味噌へ百済からの伝来
味噌の起源は、7世紀に百済から伝わってきた「醤(ひしお)」にあります。これは、大豆や穀物を塩と混ぜて発酵させた調味料で、当時の朝鮮半島では一般的に食されていました。具体的な記録としては、『日本書紀』に記されたように、推古天皇の時代(593~628年)に小野妹子が百済から帰国する際に醤が献上されたことが挙げられます。
この醤は、当時の日本ではあまり知られていない味わいであったため、特に貴族や宮廷で珍重され、食卓に登りました。日本における発酵食品の利用は、気候や食材と共に進化し、日本固有の発酵技術が生まれていきます。
特に日本の湿潤な気候では発酵の管理が難しく、醤の製法は日本の風土に合わせて改良されていきました。また、米や麹の使用も取り入れられることで、液体の醤が次第に固形に近い味噌へと進化し、奈良時代には宮廷の食卓でも見られるようになりました。この過程で、初期の味噌は現代の味噌とは異なり、その風味や形状も変わっていたと考えられます。

貴族の食卓へ未醤の登場
時代が進むにつれ、奈良時代には「未醤(みしょう)」と呼ばれる新たな食品が台頭します。これは大豆を発酵させた中間段階のもので、現代の味噌に近い形態になりました。『正倉院文書』に記載された未醤の存在は、当時の貴族社会における重要な地位を示しています。特に、近江国や和泉国からの貢物として徴収された未醤は、貴族や寺社の食卓に上昇しました。
未醤は、麹と塩を使って発酵させた製品であり、風味は現代の味噌と比較すると比較的粗く、塩分も強かったとされています。貴族たちは、この未醤を魚や野菜と組み合わせて料理し、宮中の饗宴や仏教寺院の精進料理で盛況に用いていたのです。特に、奈良の東大寺や興福寺での儀式には、未醤が重要な役割を果たしていたことでしょう。
さらに、当時の未醤は庶民には親しみがなく、高級品として存在しました。荘園制度のもと、大豆が栽培され、未醤として加工されたものが都に送られる流通が生まれ、近畿地方から摂津、山城へと広がっていきました。この流通網は、やがて日本国内での味噌文化の発展に寄与します。未醤は、仏教の影響を受けた需要とも密接に結びつき、発酵食品の重要性が見直されていく重要な時期となったのです。
このように、古代の味噌は貴族社会の中で育まれ、権力者や宗教施設の間での特権的な存在でありました。歴史的な背景を知ることで、私たちの日常に欠かせない味噌の重要性を再確認できます。そして、現代においても、手作りの味噌が様々なスタイルで楽しめる時代が訪れています。当店琉樹商店では、これらの伝統を受け継ぎながら、味噌を楽しむ新しい方法を提案し、様々なフレーバーをお届けしています。味噌の歴史と文化を感じながら、ぜひ私たちの手作り味噌をお試しください。
平安時代の味噌 権力者の特権
平安時代、日本では味噌が貴族社会で特別な存在を持っていた。この時代、味噌は単なる調味料としてではなく、権力や富を象徴する食材として位置付けられ、特に貴族たちの食卓には欠かせない存在となっていた。貨幣経済が発展する前、味噌は物質的な価値を持ち、高貴な地位を表す重要な役割を果たしていた。ここでは、味噌がどのようにして権力者の特権となったのか、その過程を見ていこう。

給与としての味噌『延喜式』の記録
平安時代中期、927年に編纂された『延喜式』には、味噌が高級官僚に対する給与の一部として支給されていた記録が残っている。この法令集によると、官僚たちには「味噌一斗二升」が支給されていた。一斗は約18リットル、実に20~24キログラムに相当する。この膨大な量は、現代の家庭用の味噌が1キロ程度であることを考えると、その重要性を物語るものである。一斗という単位が使われるほど、味噌は特別な食材であり、貴族の生活に欠かせない贅沢品だった。
当時、貨幣経済が未発達だった日本において、味噌は米や麻布と並んで流通する貴重な品々の一つであり、その背景には、味噌の製造に必要な高度な技術があった。大豆を発酵させ、熟成させるためには専門的な知識と手間がかかり、その生産をする者は限られていた。ゆえに、味噌は貴族や大寺社だけが享受できる贅沢な品であり、またその支給は官僚社会の権威を象徴するものであった。
公卿や蔵人といった高地位の官僚たちが味噌を受け取る光景は、彼らの地位をさらに強固にする要素となったと言える。『延喜式』に記載された内容は、味噌が単なる食味を超え、権力者のシンボルとして君臨していたことを物語る。このように、平安時代の味噌は単なる調理用の材料でなく、政治的・社会的な関係を築く重要な役割を担っていた。
地方からの貢物 荘園の役割
平安時代における味噌の重要性は、ただ貴族の間に留まらず、地方からの貢物にも深く関わっていた。荘園制度が発展する中、地方の大名や寺社は、味噌を貴族への貢物として都に納める役割を果たしていた。この荘園が生産の拠点となり、米や布だけでなく、味噌が都に運ばれる重要な物資として流通していたのだ。
特に、東海道や北陸道沿いの地方では、大豆の栽培が盛んであり、味噌作りの技術が根付いていた。近江や美濃の地域では、この地で生産された大豆を使って味噌が作られ、それが平安京へと運ばれる流れができていた。『今昔物語集』にも、地方の有力者が都に味噌を持参したり贈り物の一部とした事例が描かれているが、このことは味噌の重要性を裏付けるものだろう。
また、荘園制度のもとで発展した地方では、味噌作りの技術も一層進化していった。例えば、関東の武蔵国や相模国でも味噌作りが行われ、やがて寒冷な気候に適した発酵技術が育まれることで、地域特産の味噌が生まれる基盤が形成されていった。貴族社会では、このように地方からの味噌が贈り物として扱われ、権力者との結びつきを強める媒介となったのだ。
このように、平安時代の味噌は権力者の特権を象徴するだけでなく、地方との結びつきや流通の仕組みを通じて、さらに日本全国へとその影響を広げる過程へとつながっていった。その結果、味噌は日本の食文化に根付く重要な食材へと成長していくことになる。
戦国時代の味噌 戦場から農村へ
戦国時代、日本は武将たちの争いで混沌とした時代でした。この乱世の中で、食糧の確保は戦の勝敗を左右する重要な要素となりました。特に味噌は、その保存性と栄養価から、兵士たちの兵糧として重要な役割を果たしました。ここでは、武田信玄と伊達政宗という二人の名将がどのように味噌を駆使し、戦場から農村へとその文化を広めていったのかを探ります。
武田信玄と信州味噌 兵糧の力
武田信玄は戦国時代の名将として数多くの戦歴を持ち、その特徴的な戦略には味噌が密接に関わっています。彼が信濃(現在の長野県)を攻略する際、地元での味噌の生産を積極的に奨励しました。これは信州味噌の起源とも言われています。
戦は長期間にわたることが多く、兵士が不足する食料を確保することが勝利に直結していました。味噌はその塩分とタンパク質の豊富さから、過酷な戦場における理想的な兵糧とされました。特に、1561年から続く川中島の戦いでは、信玄の軍は味噌を持参して戦った記録があります。
甲斐や信濃の地域は山々が多く、米の栽培には限界がありましたが、大豆の生産は比較的容易でした。信玄は、この大豆を味噌に加工することで兵士への食糧供給を実現しました。その結果、信州の寒冷な気候に適した、深い味わいを持つ長期発酵技術が育まれました。味噌は簡単に調理でき、野営地で湯に溶かすと即座に味噌汁に変身する手軽さもあり、兵士たちの士気を維持する大きな助けとなったのです。信玄は農民に味噌作りを奨励し、戦時には農村から軍に供給することを命じたとされています。
こうした取り組みによって、信玄の統治下では自家製味噌を作る農民が増え、技術が周辺地域へと広がりました。この信州味噌の伝統は、信玄の時代にしっかりと根付くこととなり、今日でもその美味しさが受け継がれています。
伊達政宗の塩噌蔵 東北への浸透
一方、伊達政宗は味噌の利用を戦場から領地経営へと展開し、東北地域での味噌の普及に寄与しました。彼は1600年代初頭の関ヶ原の戦いを経て、仙台に「塩噌蔵」を設立しました。これは味噌と塩を大量生産する日本初の工場とも称される重要な施設です。
政宗は塩噌蔵を仙台城下に建設し、周辺の農民から集めた大豆や米を使って味噌を生産しました。戦が減り、安定した領地経営が求められるようになった政宗は、味噌を戦略的に活用する道を選んだのです。生産された塩味噌は、兵士への配給にとどまらず、民への支給や家臣への恩賞としても重宝されました。
政宗は荒れた土地を復興させるために、農民に味噌を配ることで人心をつかみました。東北の厳しい気候に適した濃厚な赤味噌が育ち、仙台味噌の原型が形成されました。この味噌は特に塩気が強く、長期保存が可能なため、冬の長い東北地方で重宝されました。
また、政宗は味噌作りの技術者を養成し、領内で大豆栽培を奨励しました。こうした取り組みで、味噌の製法が奥州や出羽に広がり、結果として地域の経済を支える基盤が築かれました。また、関ヶ原後の混乱期には、仙台味噌を贈り物として用い、近隣大名との関係を強化する努力も行なっていたかもしれません。
決してただの食材ではない味噌は、武士たちが戦の鬼から領地の治安を保つ者へと変わる中で、経済と品格を育む重要な存在として位置付けられていったのです。こうして、伊達政宗の影響もまた、味噌を全国へと広げる一助となりました。

江戸時代の味噌全国への定着
江戸時代は、平和な時代が訪れ流通の発展が味噌を全国に普及させる重要な転換点でした。この時期に都市化が進み、庶民の食卓に味噌が根付き、さらには地域ごとのブランドが花開くこととなります。味噌が日本の食文化に深く定着する過程を、商人や幕府、地方の協力を通じて詳しく見ていきましょう。
都市での流通 商人と味噌屋

江戸時代、特に16世紀以降、都市化が進展する中で、味噌は庶民にとって不可欠な存在となりました。江戸や大坂のような大都市では、商人が味噌を桶に詰めて売り歩く光景が日常的になり、その様子は『守貞漫稿』という書物にも記録されています。
元禄時代(1688~1704年)には、農業技術の向上に伴い大豆の生産が飛躍的に増加しました。その結果、都市部での味噌の需要に応える供給体制が整い、江戸の人口は100万人を超え、三河や信州から大量の味噌が運び込まれました。味噌屋が立ち並ぶ繁華街が形成され、町人たちは手軽に味噌を入手することができるようになったのです。
また、参勤交代制度も味噌の流通を後押ししました。大名が地方から江戸に赴く際には、領地の特産品である味噌を持参し、これは都市住民が多様な味に触れる機会を提供しました。仙台藩の赤味噌や、加賀藩の大聖寺味噌が江戸に持ち込まれ、庶民にも広がることとなります。商人は舟運や街道を利用して味噌を全国へ運び、東海道や中山道を通じた陸路に加え、河川や海路での輸送も活発化しました。この流通網が、味噌汁を庶民の日常食として根付かせるきっかけを作ったのです。味噌はもはや権力者だけの特権ではなく、都市の暮らしに深く溶け込む存在になっていきました。
地域の名産化 幕府と地方の連携
江戸時代、幕府や大名も味噌の普及に力を入れ、地域ブランドの形成を後押ししました。地方名産の味噌が将軍家に献上される慣習があり、長い伝統を持つ信州味噌や仙台味噌は江戸に送られ、一般家庭でも親しまれるようになりました。例えば、信州味噌は武田信玄の時代から受け継がれた技術が生かされ、風味豊かな味わいが評価されました。
さらに、幕府は塩の専売制を導入し、味噌生産に欠かせない塩の流通をコントロールしました。越後(新潟県)や能登(石川県)で生産される塩は、全国へと供給され、その価格と供給の安定は味噌生産を間接的に支えました。農村では自家製味噌が普及しつつあり、地域ごとの特色が強化されていきます。関西では米麹を使った白味噌が公家文化の影響を受け、九州では麦味噌が庶民に愛されるなど、地域性が色濃く表れるようになったのです。
江戸時代の安定が、農民に味噌作りの余裕を提供し、地域の特色を育む環境を生み出しました。幕府と地方の協力関係は、味噌を全国に普及させつつ、多様な味の文化を広げる原動力となりました。こうした風味ばかりでなく、地域の誇りともなる名産品としての味噌。琉樹商店でも多種多様なお味噌を手作りで販売しており、各地方の味を再現した製品を新人農家の手でちょっとした工夫を凝らして作っています。ぜひ、皆さんも地域の風情や伝統を感じながら私たちの味噌を楽しんでください。
現代への継承 味噌の現在と未来
明治以降、味噌は工業化とグローバル化の波に乗りつつ、古代から続く伝統を保ち続けています。近代的な流通網が全国に味噌を届ける一方で、地方の蔵元がその個性を守る中で、味噌は日本の食文化の柱として新たな役割を担うようになりました。この節では、現代に受け継がれた味噌の広がりと、それが持つ歴史的・文化的意義を詳しく考え、未来への展望を描きます。
工業化と全国供給 近代の変貌
明治時代以降、味噌の流通は劇的な変化を迎えました。1868年の明治維新後、鉄道や海運の発達が物流を一変させ、味噌を全国の隅々に届ける基盤が整いました。1890年代には、蒸気船や鉄道網が整備され、特に東海道本線や日本海側の航路が味噌の輸送を劇的に効率化しました。この時期に始まった工業化の波は、味噌生産にも大きな影響を与え、伝統的な蔵元の手作業に代わり、大手メーカーが機械化を導入し、大量生産が可能になりました。
例えば、1897年に設立された「マルコメ」は、信州味噌を基盤に全国展開を始め、近代的な味噌産業の先駆けとなりました。都市部では、生活様式の変化が味噌の消費を後押ししました。大正から昭和初期にかけて進行した都市化、核家族化、そして女性の社会進出の中で、手軽に調理できる食品が求められるようになったのです。特に、1950年代にはインスタント味噌汁が登場し、多忙な現代人の嗜好に合致しました。永谷園やハナマルキといった企業が、フリーズドライ技術を用いた即席味噌汁を開発し、コンビニやスーパーで手軽に購入できるようになりました。
こうした進化の中で、味噌は日本の食文化の柱として再認識されました。戦中・戦後の配給制度で味噌が支給された経験から、国民の間に味噌への信頼が根付き、豊かさを取り戻す復興期の食卓を支えました。1960年代以降には全国チェーンのスーパーマーケットが拡大し、信州味噌や仙台味噌など地域ブランドが手に取りやすくなったことで、より多くの家庭に味噌が浸透しました。2025年現在、年間約40万トンの味噌が生産され、その大半が工業製品として流通している状況でもありますが、この変化は明治以来の技術革新と社会の変遷の賜物です。
伝統の守護者 地方蔵元の役割

一方、現代でも地方の味噌蔵が伝統を守り続け、味噌の多様性を維持しています。例えば、長野県の信州味噌蔵は、武田信玄の時代から続く長期発酵の技術を受け継ぎ、淡い色合いと辛口の味わいを今に伝えています。創業300年を超える「丸高蔵」のような老舗は、木桶を使った手作りの製法を守り、工業製品とは一線を画す深い風味を提供しています。また、仙台の老舗蔵元は、伊達政宗の「塩噌蔵」から始まった濃厚な赤味噌を後世に残し、東北の食文化を支えています。宮城県の「ヤマモ味噌」は、伝統的な麹作りと熟成技術にこだわりながら、地元の誇りが詰まった商品を提供しているのです。
地方蔵元の役割は、伝統を守るだけにとどまりません。観光地として味噌作り体験が人気を集め、地域振興の一環になっています。例えば、長野県の小布施町や山梨県の甲府では、観光客が蔵元を訪れ、自ら味噌を仕込むプログラムが盛況です。2019年の観光庁の調査によると、こうした体験型観光は地方経済に年間数百億円の効果をもたらしているとされています。また、家庭で手作りするための味噌キットも販売され、若い世代がこれまでの伝統に触れる機会が増えてきています。特に2020年代には、コロナ禍による巣ごもり需要が手作り味噌ブームを後押ししました。
グローバル化が進む中で、味噌は健康食品としても海外に浸透しており、日本の文化を世界に広めています。2010年代以降、発酵食品の健康効果が注目され、味噌は海外市場で「MISO」として知られるようになりました。日本貿易振興機構(JETRO)のデータによれば、2023年の味噌輸出額は約50億円に達し、アメリカやヨーロッパでの需要が拡大しています。マルコメやハナマルキなどの大手メーカーは、海外向けに減塩タイプやオーガニック味噌を展開し、日本の伝統とも言える食材を国際市場に合わせています。地方蔵元も小規模ながら高品質な味噌を敏感に輸出することで、プレミアムブランドとしての地位を確立しているのです。
工業製品と伝統の共存は、古代から現代まで日本を染めてきた味噌の歴史の結晶と言えるでしょう。スーパーで買える味噌は便利さを、蔵元の味噌は地域の魂を体現しています。そして、両者が現代の食卓を豊かに彩る役割を果たしているのです。グローバルな広がりの中で、味噌は日本のアイデンティティを世界に発信し、未来への継承を続けています。一杯の味噌汁には、古代の貴族、戦国の武将、江戸の庶民、そして現代の私たちをつなぐ長い足跡が溶け込んでいるのです。