なぜ麹菌だけが「日本の国菌」に選ばれたのか?1000年の歴史が紡いだ驚きの物語
日本には、桜(国花)や雉(国鳥)といった象徴的な生き物が存在しますが、微生物の分野で唯一「国菌」の称号を授かったのが麹菌です。2006年、日本醸造学会がこの前例のない認定を行った背景には、科学・文化・産業の交差点に立つ麹菌の特別な存在価値がありました。本記事では、千年以上にわたり日本人の暮らしとともに歩んできた麹菌の軌跡をたどり、その驚くべき力と文化的意義に迫ります。
2006年、学会が下した前代未聞の決断
2006年10月12日、日本の微生物研究史に新たな一頁が刻まれました。日本醸造学会が、数ある微生物の中から麹菌(学名:アスペルギルス・オリゼー)を「国菌」として公式に認定したのです。これは、学術界にとっても文化史にとっても、前例のない画期的な出来事でした。
微生物初!「国菌」認定に隠された真意とは
日本醸造学会が発表した宣言文には、「麹菌は、古来わが国の醸造をはじめ、さまざまな食品に用いられており、豊かな食文化に貢献してきた」と記されています。この認定は、単なる学術的な分類を超え、文化的・社会的な意義を持つものでした。
背景には、日本の発酵食品産業が直面していた危機感があります。グローバル化の進展により西洋の食文化が広がる中、伝統的な発酵技術や麹文化の継承が危ぶまれていたのです。
こうした状況を受けて、一島英治博士の提案により「国菌」認定の取り組みが始まりました。麹菌の科学的価値と文化的重要性を国内外に発信することを目的とし、学会は「日本からの麹菌に関する科学技術と文化の発信は、21世紀の世界に大きなインパクトを与える」と期待を表明。麹菌を通じて、日本の発酵文化を世界に伝えることが目指されたのです。
数ある候補の中で麹菌が選ばれた3つの理由

麹菌が「国菌」に選ばれた理由は、科学的・文化的・産業的という三つの観点から説明できます。まず科学的価値として特筆すべきは、2005年に日本の産学官連携によって麹菌(アスペルギルス・オリゼー)の全ゲノム配列が世界で初めて解読されたことです。この成果は、日本の微生物学研究の先進性と国際的な貢献を示す画期的な出来事でした。
次に文化的価値として、麹菌は味噌、醤油、日本酒、みりんなど、和食を支える発酵食品の製造に不可欠な存在であり、日本の食文化の根幹を担ってきた歴史的意義が高く評価されました。
さらに産業的価値としては、明治時代に高峰譲吉博士が麹菌から消化剤「タカジアスターゼ」を抽出・創製した実績があり、医薬品分野における応用可能性も認められています。これら三つの価値が重なり合うことで、麹菌は他の微生物を凌ぐ存在として、国菌の称号を得るに至ったのです。
古代から現代まで、日本人と歩んだ麹菌の軌跡
麹菌と日本人の関係は、想像以上に古く、そして深いものです。 中国大陸から伝わった発酵技術が、日本独自の文化として発展していった背景には、日本の気候風土と、それに寄り添い工夫を重ねてきた人々の知恵が大きく関わっていました。
奈良時代の宮廷料理に潜む麹菌の足跡
日本における麹菌の最古の記録は、奈良時代の文献『播磨風土記』に見られます。そこには、「神への供物である米飯が濡れてカビが生えたため、その麹菌を使って酒を醸した」と記されています。この8世紀の記述は、日本人が麹菌の発酵能力を偶然発見し、それを酒造りに応用した最初の証拠とされています。
当時の宮廷では、中国から伝来した発酵技術を基に、独自の醸造法が発展していました。中でも注目すべきは、日本では黄麹菌のみを選択的に繁殖させた「ばら麹」が用いられていた点です。中国や東南アジアでは、複数の微生物が混在する「餅麹」が主流であったのに対し、日本では早くから純粋培養に近い技術が確立されていたのです。
これは、日本人の繊細な味覚と品質へのこだわりが反映された結果といえるでしょう。米粒をそのまま食べるという日本独自の食文化が、麹の形状や培養方法にも影響を与え、世界でも類を見ない精密な発酵技術の礎を築いたのです。


江戸時代に花開いた発酵産業
江戸時代に入ると、麹菌を活用した発酵産業は飛躍的な発展を遂げます。その技術的な礎となったのが、室町時代に発見された「木灰を混ぜた麹づくり」の手法でした。麹の培養時に木灰を加えることで雑菌の繁殖を抑え、麹菌だけを安定して育てることが可能になったのです。この技術は、現代の「種麹(たねこうじ)」の原型となり、麹菌の純粋培養を実現する画期的な発見でした。
江戸時代の麹屋は、まさに現在の「バイオテクノロジー企業」の先駆けといえる存在です。彼らは経験と勘を頼りに温度や湿度を緻密に管理し、品質の安定した麹を大量に生産する技術を確立しました。特に味噌や醤油の製造業者との連携により、全国規模の流通網が整備され、地域ごとに個性豊かな発酵食品が誕生していきます。
この時代に培われた技術と知見は、現代の発酵産業の礎となっています。江戸の町人文化と深く結びついた麹菌は、単なる微生物の域を超え、日本人の生活様式そのものを形づくる存在となったのです。

江戸時代の麹屋の内部。職人たちは蒸し米に麹菌を植え付け、木べらで丁寧に広げながら発酵の準備を進めていました。こうした手仕事の積み重ねが、和食文化の礎を築いたのです。「蒸し米を広げる麹職人たちの作業風景(イメージ図)」
和食の「うま味」を生み出す麹菌の魔法
麹菌が日本の食文化に与えた影響は計り知れません。特に「うま味」という概念の発見と発展において、麹菌の果たした役割は決定的でした。この微生物が持つ酵素の力が、日本料理独特の深い味わいを生み出しているのです。
味噌も醤油も日本酒も!麹菌なしでは生まれない絶品の秘密
味噌や醤油、みりん、酢、そして日本酒──いずれも和食を代表する発酵食品は、麹菌の力を借りて醸造されています。麹菌の最大の特徴は、さまざまな酵素を産生する能力にあります。たとえば、麹菌が生成するアミラーゼはデンプンを糖に分解し、プロテアーゼはタンパク質をアミノ酸へと変化させます。特に醤油の製造では、麹菌が産生した酵素が大豆と小麦のタンパク質を分解し、うま味成分であるグルタミン酸を生成します。味噌においても同様に、酵素の働きによって発酵が進み、発酵期間や温度管理によって多彩な味わいが生まれます。
日本酒の醸造では、麹菌が生成したアミラーゼが米のデンプンを糖に変換し、酵母がその糖をアルコールへと発酵させる「並行複発酵」という独自の技術が確立されました。



北海道から沖縄まで、地方グルメに息づく麹パワー
日本各地の気候風土は、麹菌の働きに微妙な違いをもたらし、それぞれ独自の発酵食品を育んできました。たとえば、寒冷な北海道では低温長期発酵により、コクのある濃厚な味噌が生まれ、温暖な九州では麦を主原料とした麦味噌が発達しました。これは、地域ごとの主要穀物や気候条件が麹菌の活動に影響を与えた結果といえます。
特に注目すべきは、沖縄の伝統的な発酵食品「豆腐よう」です。これは、島豆腐を麹で発酵・熟成させたもので、中国由来の発酵技術と沖縄特有の高温多湿な気候が融合して生まれた、極めて個性的な味わいを持つ一品です。また、秋田の「しょっつる」や石川の「いしる」など、魚介類を麹菌で発酵させた魚醤も、地域の海産物と麹文化が結びついた好例といえるでしょう。
このように、同じ麹菌であっても、使用する原料や気候条件、製造技術の組み合わせによって、無限ともいえる味のバリエーションが生まれます。地方色豊かな発酵食品の数々は、麹菌の高い適応力と、日本人の創意工夫の結晶なのです。


世界が注目!麹菌だけが持つ驚異の能力
科学技術の発展により、麹菌の持つ能力の全貌が明らかになってきました。他国の発酵微生物と比較して、麹菌が示す独特な特性は、世界の研究者からも注目を集めています。
他の国の発酵菌とは一線を画す麹菌の超能力
コウジカビ(麹菌)は、増殖の過程で、デンプンやタンパク質などを分解する多様な酵素を菌糸の先端から産生・放出します。これらの酵素が、培地となる蒸米や蒸麦に含まれるデンプンやタンパク質をグルコースやアミノ酸へと分解し、それらを栄養源として取り込むことで、麹菌は効率的に増殖していきます。この特性こそが、麹菌を他の発酵微生物と一線を画す存在にしているのです。
なかでも麹菌の最大の強みは、酵素の産生能力の高さとその多様性にあります。一般的な発酵微生物が限られた種類の酵素しか作り出せないのに対し、麹菌は100種類以上の酵素を産生できるとされ、特にアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼといった主要酵素の活性が非常に高いことが知られています。これにより、複雑な原料の分解と効率的な発酵が可能になるのです。
さらに、麹菌は有害なカビ毒(マイコトキシン)を産生しない安全な微生物としても評価されており、食品製造における大きな利点となっています。加えて、pHや温度の変化にも高い適応力を持ち、さまざまな発酵条件下でも安定して機能する点も、麹菌が重宝される理由のひとつです。

日本の四季が育てた究極の発酵マシン
日本の気候風土は、麹菌の進化に独自の影響を与えてきました。四季のはっきりとした変化と高い湿度は、麹菌が多様な環境条件に適応する力を育む要因となったと考えられています。特に梅雨時期の高温多湿な環境は、麹菌の繁殖に最適であり、この時期に仕込まれる味噌や醤油は、ひときわ豊かな風味を備えるとされています。
また、日本の水質も麹菌の活動に大きく関わっています。軟水が主流の日本では、ミネラル分が少ないため、麹菌の酵素活性を妨げることなく、純粋な発酵がスムーズに進行します。これに対し、硬水が一般的なヨーロッパでは、同様の発酵プロセスの再現が難しいとされています。
さらに、日本列島の南北に長く伸びる地形は、地域ごとに異なる微気候を生み出し、それぞれの環境に適応した多様な麹菌の系統を育んできました。こうした自然環境との長年にわたる相互作用を通じて、麹菌は世界でも類を見ない高度な発酵能力を獲得し、まさに「日本オリジナル」の微生物として独自の進化を遂げたのです。
受け継がれる職人技と、科学が解き明かす新たな可能性
麹菌の価値は、伝統的な職人技術と最新の科学研究の両面から再評価されています。古来から受け継がれてきた匠の技と、現代科学が明らかにする新たな可能性が結びつき、麹菌は次世代へと継承されていくのです。
五感で見極める!麹職人に代々伝わる神業
麹造りの現場では、現代においてもなお、職人の感覚に頼る部分が多く残されています。熟練した杜氏や麹職人は、麹の色つや、香り、触感、さらには発酵時に発せられる微細な音までも感じ取り、最適な発酵状態を見極めているのです。
たとえば、良質な麹は「栗香(くりこう)」と呼ばれる甘い香りを放ち、表面には適度な白い菌糸が張り、指で触れると弾力があります。こうした職人の経験に基づく判断には、近年、科学的な裏付けも与えられつつあります。麹の色は麹菌の代謝産物の種類や量を示し、香りは発酵の進行度や雑菌の混入状況を反映しています。
職人が「手で触って分かる」と語る麹の状態は、菌糸の密度や水分含量を感覚的に捉えている証であり、これは長年の経験と観察によって培われた技術です。たとえ温度や湿度の管理が機械化された現代であっても、最終的な品質判断は職人の五感に委ねられる場面が少なくありません。
このような伝統技術の継承は、単なる技術の伝達にとどまらず、日本の発酵文化そのものを未来へとつなぐ営みといえるでしょう。

健康ブームの立役者?現代科学が証明する麹菌効果
近年の研究により、麹菌由来の発酵食品が持つ健康効果が、科学的にも次々と明らかになっています。麹菌は、穀物を分解する多様な酵素を産生する有用な微生物で、食品の保存性や栄養価を高めるだけでなく、うま味成分であるアミノ酸を増やし、豊かな香りや深い味わいを引き出す役割も担っています。
特に注目されているのが、麹菌が産生するペプチドや機能性成分です。血圧を下げる作用を持つペプチドのほか、コレステロール低下に寄与するとされるフェルラ酸や、抗酸化作用を示すコウジ酸などが報告されています。発酵過程で生まれる乳酸菌や酵母との相互作用により、腸内環境の改善効果も確認されており、これらの研究成果は、伝統的な日本の食生活が長寿社会を支えてきた科学的な裏付けとなっています。
さらに、麹菌の遺伝子レベルでの解析も進み、有用酵素の大量生産や新たな機能性食品の開発へと応用が広がっています。千年以上にわたり日本人に育まれてきた麹菌は、21世紀の健康社会においても、変わらぬ価値を持ち続けているのです。
「国菌」という称号は、単なる学術的な分類ではありません。それは、麹菌が1000年以上にわたり日本文化の根幹を支え続けてきたことへの、深い感謝と敬意の象徴なのです。私たちが日々口にする味噌汁や醤油の味には、遥か昔から続く日本人と麹菌の共生の歴史が、静かに息づいています。

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